ほどよい距離   副教会長

 何年か前の事です。自分の中でどうしても許せない人がいて、その人が私に向けて言うこと、やることすべてにイライラしていたことがありました。私の中にはありえないような事を言ったりやったりするのですが、それを無理に笑顔で受け入れていたという感じでした。教会長に相談すると、「辛抱できないのであれば距離をおく事を考えた方がよい」と言われ、ただ私を頼ってきてくれていることもあってそれもできず、教祖様のみ教えを表面的に捉え、辛抱というよりは我慢していた時期がありました。この人はこういうことを言うと相手が嫌な気持ちになるとか、こういうことをすると相手に失礼だということを知らないのだから仕方がないという諦めの気持ちもありました。

 そんな中で「嫌いな人がいるという場合には、その人を受け入れられない自分の中の未熟な部分に目を向けたいと思う」という言葉にであいました。相手に変わってほしいという相手に対する気持ちばかりで、自分に目を向けるということをすっかり失念していた自分に気づきました。そして、この言葉の自分が未熟だから悪いというようなきつい感じではなく、自分の未熟な部分に目を向けたいという所にあたたかさを感じ、本当にありがたいと思いました。

その後神様にお願いさせていただきながら、自分の未熟さに目を向ける努力をしつつ、今ではお互いの色々な環境の変化があり、よい距離感でお付き合いさせていただいています。たまにびっくりするような事を言われたりしますが、それはそれとして受け流す事が出来るようになりました。

今ではコロナ禍で人との物理的な距離を、しっかり取ることが望ましいとされています。そんな中だからこそ人との心理的な距離について考えてみるもいいかもしれませんね。自分の未熟な部分に目を向けることの出来るような大きな自分になりたいものです。


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